盆(1)
お釈迦様の弟子に、目連という修行によって神通力を身につけた高僧がおりました。ある時、目連はすでになくなっている母に会うために神通力を使いました。
目連は、母は優しい人で、すばらしい人でしたので当然、極楽界にいると信じて疑いません。でも、そこに母はいませんでした。もしや人間界にと思って探してみたのですが、そこにも見当たりません。
まさかと思いつつ目連は、地獄の一歩手前の餓鬼道をのぞいてみました。そこで、目連は、手足を縛られ、さかさまに、つるされて苦しんでいる母を見つけたのでした。
驚いた目連は母に歩み寄りましたが、母は「食べ物を」「食べ物を」と言うだけで、そこに自分の息子がいることさえ気がつきません。目連は、人間界から食物を持って来て母に手渡しました。 母はそれをひったくるように取つて口に運びました。ところが何と、その食物は口の前で燃え尽きてしまったのです。何を食べようとしても同じでした。食物は口の前ですべて燃え尽きてしまいます。
目連は、お釈迦様に教えをこいました。
お釈迦様は、「お前の母親はお前を愛するあまり、他人への思いやりをなくし餓鬼道に身を落としてしまった。母親の苦しみを見たお前は母を助けたい一心で周りで同じように苦しむ者のことを忘れている。自分だけよければという考えを捨てなければ......」。
かくして、お盆は祖霊を迎えて供え物をささげてまつり、祖霊とともに食べたり、飲んだりして、しばらくのあいだ、祖霊と語らいながら過ごすときとなりました。
藪入り
日本人にとっては、古来、お正月とお盆はもっとも重要な行事でした。大きな幸運を表現するのに「盆と正月が一緒にきた」という言葉があるほどです。盆は、その日、それぞれの家が先祖の霊をお迎えし、農作業の安全と作物の収穫に感謝し、この秋の豊作をお願いする行事です。祖霊の降臨中は一家をあげて歓待し、お盆を充分に楽しんでいただいてから、ご帰還していただくという考え方です。16日は閻魔様の縁日でもあり外に出ていた家族は主家から休暇をもらって、故郷の家に帰ってきます。この日を「薮入り」(1月16日と7月16日)といっています。集まった家族は、お互いの無事を確認して喜び合い、ご馳走を食べたり、お酒を酌み交わしたりして一夜を過ごすのです。 これは家族ごとの祝宴であると同時に村落共同体全体の祝祭の夜でもありました。そのため村の広場の真ん中に櫓(やぐら)を組み、舞台をしつらえて、その上で太鼓を叩いて歌を唄い、踊り上手が模範を見せながら、浴衣姿の男女が櫓の周りを幾層にも輪になって、夜を徹して踊り明かすのです。この「盆踊り」の華やかな雰囲気と興奮で若い男女のあいだにロマンスが芽生え、愛をはぐくむ機会にもなっていました。
今は日時は一定しませんが、お盆の頃には盆踊りが全国いたるところで催され、越中八尾おわら風の盆や、郡上おどりのように全国的に有名になり、立派な観光資源になっている場合も少なくありません。
盆(2)
お盆は祖霊を迎えて供え物をささげてまつり、祖霊とともに食べたり飲んだりしてしばらくの間、祖霊と語らい過ごす期間です。
新暦で7月13日から16日まで行われる仏教行事ですが七夕と同じように月遅れで行う所が多くなっています。8月13日から16日まで会社の夏休みもこの盆にあわせるようになってこの期間は民族大移動といわれるほど鉄道も道路も故郷へ帰る人であふれます。
お盆は正しくは孟蘭盆会(うらぼんえ)といって意味は、さかさまに吊るされて苦しんでいる死者のことです。
「孟蘭盆経」によればお釈迦さまの高弟の目連が餓鬼道(がきどう)に落ちた母の苦しみを救うため7月15日に百味の飲食を父母の霊にささげて供養する法会を行ったのが起源です。
母が救われたことを知って目連はうれしさのあまり踊り上がって喜びました。 この踊りが盆踊りの始まりで、後に空也や一遍によって広められ念仏踊り、伊勢踊り、小町踊と風流化していきます。もともとは悪霊をなぐさめ、その荒々しい魂を鎮める踊りでした。
踊る楽しさは各地に広がり、それぞれおけさ、さんさ、切り子、豊年踊と工夫がこらされて農山漁村の最大の娯楽になってゆきます。
今では地域社会の親睦のため、あるいは単なる娯楽として行われます。人の輪の中で音楽に合わせて身体を動かすことは実に楽しいものです。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損」というのは徳島の「阿波おどり」はその代表で楽しさはブラジルのサンバなみといわれ東京の高円寺、神奈川の大和など全国に広がっています。
八朔
八朔は8月1日を意味します。朔日(ついたち)は、釜蓋朔日(かまぶたのついたち)と呼んで、地獄の釜の蓋が開く日です。盆には地獄に行った精霊も帰って来ますが地獄からの道は遠くて、朔日に出なければ間に会いません。精霊たちはその日を待ちかねたように飛び出します。茄子畑や芋畑などで大地に耳をあてるとその様子が聞こえてくるといわれます。
新盆の家では高燈寵をつるし、盆道作りをします。家や墓の掃除をし、盆棚や盆花の用意、供物としての麺類、季節の野菜、果物、さらには生身魂や中元などの贈答品の用意をします。 12日には、それらの品を売る中元売り出しのルーツともいえる草の市が開かれます。「お世話になったあの人へ」のお中元は元々陰暦7月15日のことを言うのです。13日夕、迎盆として盆堤燈と盆燈籠をともして迎火をたいて、精霊(祖先の霊)を安置した盆棚に迎え入れます。
16日の送り盆には送り火をたいて魂送りをし、精霊流しといって各種の供物を精霊船で流します。盆踊りもさかんに行われますが、これは祖霊を送るとともに無縁仏をも送り出す意味が含まれているとのことです。
夏祭り
8月1日から7日は、青森、弘前の人々が待ちに待ったねぶた祭り。収穫の秋を控えての豪華で勇壮な七夕行事です。坂上田村麻呂が蝦夷征伐のときに人形に人を隠して敵をおびき寄せた故事と古来の七夕行事が合わさったのがねぶた祭りのようです。未明の精霊流しが眠く眠たい、眠たい言うところからねぶたになったとか。
重なるように東北四大祭があります。4日から7日は秋田の竿灯祭、5日から7日が山形の花笠祭、6日から8日が仙台の七夕祭です。いずれも鮮やかな色彩にあふれたお祭りで心が踊ります。
中旬になると、西の方でこの時期賑やかなのは、徳島・阿波踊りと、京都五山の送り火です。
阿波踊りは12日から15日。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」と賑やかに踊ります。 この由来は、阿波藩祖の蜂須賀家政が城を築いたとき、その祝い酒に酔つた民が浮かれ踊ったのが始まりとされます。
京都五山の送り火は、盆の終わりの精霊送りの送り火の中で最も有名なもの。如意ヶ嶽の「大文字」焼きが最も有名ですが、他に松ケ崎山の「妙法」、西賀茂・妙見山の「舟形」、衣笠山の「左大文字」、嵯峨・満茶羅山の「鳥居形」があります。
大文字焼きの大の字は、1画目の「一」が約80m、2画目は約160m、3画目は約120mあるそうです。由来はいろいろだそうですが、弘法大師の大の字に関係があるらしいといわれています。
星空の物語
梅雨のさなかの七夕よりも月遅れの方がおもむきがあります。とは言え夜の明るい街中では天の川ですらわからないのが実情です。ですからキャンプなどで山の中に入りこんだ時は夜空の星の多さに圧倒されてしまいます。空一面にうるさいほどの星がきらめきます。「一つ残らずあなたにあげる」と愛をささやく人もいれば流れる星に祈りをこめる人もいてなぜかその光はロマンチックです。
この季節、頻繁に流れるのがペルセウス座流星群です。流れ星の多いのに気がついた人は流れる間に願いをこめてと思いますがうまくいくことはありません。
ペルセウスはいわずと知れたギリシャ神話の英雄、大神ゼウスと青銅の塔に閉じこめられた美少女ダナエの子です。若者になったペルセウスの冒険は海の果てにすむゴルゴンの首とりでした。
勇敢な美少年には力強い助力者がありました。 ゼウスの使者エルメスは隠れ帽子と飛行靴を貸し女神アテナが道案内、ニンフのナィアデスが切り取ったゴルゴンの首を入れる丈夫な袋を用意してくれました。三人のゴルゴンのうち不死身でないのはメドゥサだけ、髪は蛇、猪のキバをつき出し、背中には黄金の翼を持っています。この怪物を見た者は恐怖のあまりそのまま凍りついて石になってしまうのです。ペルセウスは隠れ帽子で身を隠し鏡の盾を使ってメドゥサの首を落としニンフのくれた袋に隠し一目散にその魔境をのがれます。他の二人のゴルゴンが後を追いますが隠れ帽子が闇を作ってくれますので見つけ出すことができません。
帰り道カシオペアの娘アンドロメダを助け妻にして国に帰りますが登場人物は知った名ばかりそれぞれが星の名にあって星空の物語の空想を広げます。
夏山登山
梅雨があけると夏休み、子供たちは「待ってました」とばかりに海や山にくり出します。それまでは人を寄せつけることもなかった高山もこの季節だけは例外です。 夏以外は山のベテランの入山すら拒み続ける富士山もこの季節は江戸の人、滝沢馬琴の歳時記に「6月朔日(ついたち)より20日(陰暦)に至りて諸国の民人富士山によじのぼる」とあるように古くから老若男女が集まる最も人気の高い山にかわります。 江戸の人は富士講中登山といって信仰半分(?)で登りました。信仰の対象は浅間神社に祭られる木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)でした。 高天原(たかまがはら)から神命を受けて降りて来たニニギノミコトはカササという地で美しい乙女に逢います。神代の昔はその場で「そなたと契(ちぎり)たい」と伝えるほどおおらかでした。 | その乙女がコノハナサクヤヒメ、父親の大山津見神(オオヤマツミノカミ)は天つ神をムコに迎えることができると喜んでよせば良いのに姉のイワナガヒメをおまけにつけました。ところがこの姉の方は顔かたちみにくくて、ニニギ見るよりおぞけをふるってせっかくながらとかわいそうにも送り返します。 姉のショックは想像もつきませんが父親も善かれとしたことが娘を傷つけることになってガックリ「イワナガをつかわしたのは雨ふり風ふけど、とこしえに岩のごとくと念じたからこそ、サクヤヒメだけでは天つ神の命ただ木の花のもろくはかなきに」となげきます。 富士詣をした江戸の人は大山津見神を祭る大山(相州)にも出かけました。片参りを嫌ったからです。これが「おけががなくてよかった」のオチで有名な大山詣です。。 |